BOOKS

–1984–

BEDTIME STORIES

OSAMU GOODSマザーグースのキャラクターが、9編の楽しい物語の主人公になった短編小説。
秋山道男さん、鈴木海花さん、林真理子さん、酒井チエさん、
安西水丸さん、秋山猛さん、佐々木克彦さんら豪華な作家陣が参加。
夢の中でも幸せな気分になれる本として、ファンなら誰もが枕元に置いていた本。
原田治さんの素敵な挿絵を掲載。

はだしでさんぽ/秋山 道男

–2–

「ブッチ、お前本当にフランスへ行ってしまうのか?」
メイプル酒場のおやじが、本当に悲しそうな顔でブッチに尋ねた。

「フランスっていやぁ随分遠いし、もうじきヨーロッパの方じゃ戦争も起こるような噂だぜ。お前のフィドゥルはこの店にゃなくてはならないものだし、オレだって本当に淋しくなるよ。」
「オヤジさんだけは分かってくれよ。僕はとてもこのメープル酒場の仲間が好きなんだ。だけど僕、本当の音楽家になりたいんだよ!」
「音楽家?いまだって本当の音楽家じゃないか。お前が『草競馬』をひくと、ビールの売れゆき確かに違うぜ。みんな本当に喜んで、マタタビ食べたような顔してるじゃないか。」
「違うんだよォーっ、つまり僕はゲイジュツをやりたいんだよ。こんなふうに酒場でひくのもちっとも嫌じゃないけど、大劇場のホールで、タキシード着るような音楽家に僕はなりたいのさ。」
「ふうーん、だけど、なにもフランスなんて遠い国へ行くこともねぇだろ。この頃じゃあなんだなぁ、レジスタンスだとかで、ミケ猫がピケはってるご時世だっていうぜ。」
「だけど僕は絶対に行くよ。そのためにもこの酒場で、バイオリンをひくあいまに皿洗いもやって、お金をためだんだもの。」
「よし、わかった。オレはもうなんにもいわねぇ、今夜はお前の最後の晩だ。ガンバってくれよ。」

ブッチは店の隅にある小さなステージに立った。禁酒法がとけて随分たっていたから、バーボンの氷のぶつかる音や、ビールの栓をぬく音があちこちで聞こえた。
ブッチは心をおちつけて『ジョージアの赤毛のあの娘は、シッポがちょいと左向き。』を高らかにかなでだした。ここアトランタでは、こういうコミカルな曲がとても人気がある。

今まで酒をのんでいた男たちも、いっせいにブッチの方を向いて、手拍子をうちはじめた。合いの手に入る口笛。“ブッチ!”というかけ声、その上機嫌な昂まり……。

はじめはとても嬉しかったこの雰囲気が、だんだん物足りなくなりはじめたのは、いったいいつごろだっただろう。船乗りの友だちが持って来た、ヨーロッパのレコードを、蓄音機で毎日あきずに聞きだしたころだろうか。
そこには、アメリカ生まれのブッチが今まで聞いたことのない、不思議な美しさがあった。それは“哀しさ”だった。ブッチのまわりに、まるで南部の太陽のごとく満ちあふれている、単純な陽気さとはまるで違ったものだったのだ。

ブッチはその後も、ヨーロッパのクラシックのレコードをたくさん買い求めるようになった。そしていつしか、ヨーロッパへ行って本格的にバイオリンをやりたいと思うようになってきたのだ。

曲が終わるとものすごい拍手がきた。幼なじみでもある、雑貨屋の犬のピーターなどは、酒と興奮で顔を真赤にしている。
オヤジが突然ステージにやってきた。
「みんな聞いてくれ。このメイプル酒場の大スター、ブッチ・スプリングティーン君が、明日フランスへ留学することになった。」
「オー!!」
「そこで皆にお願いする。俺がこのテンガロンハットをみんなに回すから、ブッチの前途を祝して、せん別を入れてやってくれ、頼むぜ!」
「わかった、まかしとけ。」、「ブッチがんばれよ。」

酒場の仲間たちは、実にこころよく銀貨を帽子の中に入れてくれた。中にはブッチの大好物のゴーダ・チーズを入れてくた友もいる。

あの晩のことを思うと、ブッチは本当に胸が熱くなるのだ。けれども、いまはあの町に帰れない。一人前のバイオリニストになって、ミルフィユという美しいフランス育ちのペルシャ猫を妻として連れ帰るまでは——。