BOOKS

–1984–
BEDTIME STORIES
OSAMU GOODSマザーグースのキャラクターが、9編の楽しい物語の主人公になった短編小説。
秋山道男さん、鈴木海花さん、林真理子さん、酒井チエさん、
安西水丸さん、秋山猛さん、佐々木克彦さんら豪華な作家陣が参加。
夢の中でも幸せな気分になれる本として、ファンなら誰もが枕元に置いていた本。
原田治さんの素敵な挿絵を掲載。

シチリア島のイルカの物語/林 真理子
「来月帰ってくるって手紙が来たわ」
「そりゃあ楽しみだね。考えてみりゃ、あんたもかわいそうさ、なんたってシチリアの出じゃないもんねぇ。囲りにゃ頼りになる親類もいない。そういや、あんたはジェノバの生まれなんだって」
「そう、陶器の工場に勤めていたの。戦争の終わった年にジュリアーノと知り合ったの、私十六だったわ」
「へぇ――、若い頃のジュリアーノってやっぱり今よりいい男だったかい?」
「あの人、軍曹の制服着てたわ。そして僕ら兵隊は君たちを守るために戦ってきたんだから、君は僕を幸福にしなきゃいけない、なんていって強引にプロポーズしてくるの…」
「へぇ――、ジュリアーノもシチリア男にしちゃやるじゃないか。おおかた兵隊の時、ローマ男にでもおそわったんだろうて」
ママとマチルダおばさんは、僕を前にくだらない話に花を咲かせはじめた。
世の大人は、赤ん坊というものは、何も言えず、何も考えない生き物だと思っているらしいが、これは大きな大間違いだ。まれには僕のような赤ん坊が存在することもある。他の赤ん坊と知り合うチャンスがないので、はっきりしたことはいえないが、よその赤ん坊も、世の大人が考えるほど、そう馬鹿ではないと僕は思うのだ。
そうでなければ、このようにか弱い体で人間の世界に突然ほおり出されて、生きのこれるはずがない。いかにも同情を誘う、弱々しい泣き声、『天使のようだ!』とかなんとか呼ばせる、このあどけない笑顔。すべて大人からたっぷりとミルクをもらうための、計算されつくした行為だと言えないことはないだろうか。
ところがこの赤ん坊の知能は、言葉が喋れるようになるのとひきかえに、急激におとろえて消えていくものなのだ。体が動けず、言葉も話せない体で生き残るために、神さまから与えられた頭脳は一時的なもので、大人たちに知られては都合が悪いものなのだ、と僕は思う。
実際、僕の頭が一番さえていたのは、生まれて二ヶ月後くらいだった。毎日が眠るだけの生活だったが、閉じたまぶたの下で、僕は突然うかんだ哲学の定理を、どう体系づけようかとあせっていた。
そんな時、パパの友だちがフランスのサルトルという作家のことを話し出したんだ。彼の提唱する実存主義とかいうものが、近ごろフランスで大流行しはじめ、パリのどーとかいうカフェでは、いいうちの若い娘が昼間から煙草を吸って酒を飲んでいるらしい、などという話だった。
ベッドの中で聞いていて、僕は興奮したね。うまく僕の定理と結びつけられるのではないかと思ったりした。けれども、彼のいう無神論と僕の考えがどうしても結びつかないんだ。だって現に神さまはいるんだもの。こうして僕たち赤ん坊に、奇跡を与えてくれる方…さすがのサルトル先生も、自分が赤ん坊の時のことはすっかり忘れてしまったらしい。