BOOKS

–1984–

BEDTIME STORIES

OSAMU GOODSマザーグースのキャラクターが、9編の楽しい物語の主人公になった短編小説。
秋山道男さん、鈴木海花さん、林真理子さん、酒井チエさん、
安西水丸さん、秋山猛さん、佐々木克彦さんら豪華な作家陣が参加。
夢の中でも幸せな気分になれる本として、ファンなら誰もが枕元に置いていた本。
原田治さんの素敵な挿絵を掲載。

シチリア島のイルカの物語/林 真理子

–19–

ママと僕にとって、つらい夏がすぎていった。ママはあまり泣かなくなって、急に年齢をとったみたい。前に泣き虫のママが、パパが帰ってきた時にだけ見せる雨の晴れ間みたいなエクボがすっかり無くなってしまった。

今ママは静かに刺繍をしている。ママが刺繍をしたブラウスやスカートは、ローマという町の女の人に買われていくんだそうだ。

そこへマチルダおばさんが裏口から顔を出した。いつものおばさんらしくなく、ひどくもじもじと言いづらそうに、ママに声をかけた。
「仕事中かい、ちょっといいかい」
「どうぞ、いまひといきつこうとしていたところよ」
ママは椅子をすすめたが、マチルダおばさんは立ったままで、言いづらいことは早く言ってしまおうとでもするように、息をのんでひとくちで喋った。
「ジュリアーノが近くまで来てるんだよ」
「ジュリアーノが?何しに?」
「今度あの人たち、アメリカへ行ってひと旗あげるんだとさ、それで行く前にどうしてもひと目ジョゼッペに会いたいっていって、夕べ遅くジュリアーノが私んところへ頼みに来たんだよ。」
「そう……アメリカへ」
ママは青ざめていたけれどひどく冷静で、黙って僕をベッドから抱き上げた。そして何度も何度も頬ずりした。

その時、僕は確かにママの必死の声を聞いたんだ!
「お願い、ジョゼッペ、なんとかパパを私たちのところへとりもどしてちょうだい」
ママの心がガラスでできているように、僕にはまるみえだった。かわいそうなママ!でも僕は信じていた。ママの入れる濃いめのコーヒーのかおり、ミーシャのまのびした鳴き声、パパのパイプのにおい、あんなに楽しかったものが、あんなにステキだったものが、あっというまに消えさるはずはないってことを……。
「じゃお願いするわ。だけどなるべく早く帰してちょうだい」
「わかっているよ」

僕はマチルダおばさんに抱かれて、港へ行く道を歩いて行った。おばさんは港をつっきると、ごみごみした路地の中に入っていき、一軒の「なぎさ亭」と書かれた宿屋の中に入っていった。

パパを見るのは久しぶりだった。いくらかやつれているように見える。パパはマチルダおばさんから、僕をもぎとるように抱くと、
「ジョゼッペ、ジョゼッペ」
と髭がチクチク痛いキスの雨をふらせた。

その時の僕の顔、本当に見せたかったよ。一世一代の笑顔をつくったんだ。
僕はもともとパパとママの子どもだから、並の赤ん坊よりもずっとかわいい顔をしている。その僕が悪魔の心もとろかすような笑顔で、しかもキャッキャッ笑ったんで、パパは本当にうっとりと僕を抱きしめた。
「まあ、なんてかわいい赤ちゃんなんでしょう」
きれいな声がして、ひとりの女が僕の顔をのぞきこんだ。

これが例の“フランス女”だとすぐにわかった。一瞬僕は身がまえたが、その女性があまりにもやさしい笑顔だったので、僕も安心してその笑顔を続けることができた。
「あんた、本当にこんなかわいい子どもを残して、アメリカくんだりへ行っちまうのかい」
マチルダおばさんが、なじるようなきつい口調でパパに言った。
「できたらジョゼッペもつれていきたいんだが……」
「冗談じゃないよ、子どもまでつれていかれて、あんたの奥さんはどうやって生きていくのよ!」
「ジュリアーノ、それ以上ジョゼッペといると別れがつらくなるようだから、そろそろお返ししたら……」
おだやかな口調で、そのフランス女性はいった。その時もういち度、はっきりと僕は彼女の顔を見た。別にヤッカミでも何でもなく、ママの方がずっと美人だと思った。けれども彼女には、いかにも粋でしゃれた雰囲気があって、ああこれがよく人のいう“フランス娘”なんだな、と僕もしばらくのあいだうっとりとしてしまったんだ。
「じゃあな、ジョゼッペ」

パパは最後のキスをすると、僕をマチルダおばさんの腕にもどそうとした。
その瞬間、天地もとどろくような大音響が部屋に起こった。もちろんこれは僕の泣き声。
「ギャ~オン、ギャー~!!」
泣き声のものすごさと、今まで泣いたことがない僕が泣き出した意外さに、パパとマチルダおばさんはしばらくの間、あっけにとられてしまった。
「ギャ~、ギャ~!!」
廊下のあちこちでドアをあける音が聞こえ、
「なんだ、なんだ」
「猫殺しか、赤ん坊殺しか」
パパはやっと我にもどり、またしっかりと僕を抱きしめた。そのとたん僕はまた天使の笑顔にもどり、あどけない瞳でパパを見つめたのだ。
「許してくれよジョゼッペ、パパをそんなに困らせないでくれよ」
パパはホッとすると、僕はまた頬ずりしてマチルダおばさんの手に返した。
「ギャオ~ン!ギャオ~ン!」
さっきよりもっとすごい泣き声。
「オイ、何してんだ!警察に知らせてやろうか」
誰かがドアをたたいた。