BOOKS

–1984–

BEDTIME STORIES

OSAMU GOODSマザーグースのキャラクターが、9編の楽しい物語の主人公になった短編小説。
秋山道男さん、鈴木海花さん、林真理子さん、酒井チエさん、
安西水丸さん、秋山猛さん、佐々木克彦さんら豪華な作家陣が参加。
夢の中でも幸せな気分になれる本として、ファンなら誰もが枕元に置いていた本。
原田治さんの素敵な挿絵を掲載。

シチリア島のイルカの物語/林 真理子

–18–

それでも、パパのいた半月はすばらしかった。ママはすぐ僕をベットに入れたがり、僕は抵抗してママの手を噛む、といった小ぜりあいはあったものの、おおむね親子三人の暮らしは幸福で、パパの膝はしっかりと僕専用になったのだ。

パパは僕にいろんなことを話してくれた。もちろん、僕はなにもわからないことになっているから、そばでもうじき出航していくパパのために、つくろいものをしたりしているママに聞かせるためだったのかもしれないが、話の内容といい、じっと僕をのぞきこんだ様子といい、僕のために話してくれたとしか思えない。

太平洋で鯨と衝突しそうになった話、夜の海で人魚としか考えられない、キラキラ光る物体を見た話……僕は非常に興奮して歯をくいしばったら、歯がまだないのでタラタラよだれが流れて困った。けれどパパはやさしく指でぬぐってくれて、
「ジョゼッペ、おまえもパパの後をついで船乗りになってくれるといいんだけどなぁ……」と何度もつぶやいたりしたのだ。

パパの膝の暖かさと煙草のいおいは、すっかり僕の身と心にしみついて、今ではどんな子守唄より安らかに眠りに誘ってくれる。
「もうじき葉がきれそうだなぁ…、近いうちに買いに行かなきゃ、何とかしなきゃ…」

僕はパパのぼんやりした言葉を、すこしまどろみながら聞いた。パパがどうしてこんなに煙草の葉にこだわるのかよくわからない。手にもったパイプとタバコの缶が、急に不吉なものにその時の僕には感じたのだ。パパがいる間、僕がまるでおもちゃのようにさんざんいじくりまわした丸い缶。赤と黄色でヤシの木と船をかいた煙草の缶が、なにか非常に大変な秘密をもったもののように思えた。赤ん坊独特のカンはよく当たるのだ。ホントに。


次の日の朝、僕がまだ眠っている間にパパは次の航海に出ていってしまった。今度の航海は短くて、あと一ヶ月すれば帰ってくるママは言っていた。そのせいかママもあまり泣かず、僕は少し歩けるようになって、隣のマチルダおばさんちの、山羊のミーシャと毎日一緒に遊ぶ仲になった。
ミーシャはシチリア島でも一、二を争うお婆さん山羊で、毛がところどころはげ、ちょっと見たところでは、いったい何という動物かあてることはできないだろう。ミーシャはとてもやさしい性格で、僕が残り少なくなった毛をひっぱったりしても何もいわなかった。誰も見ていないと、僕はミーシャの背によじのぼり、船長が双眼鏡を手に持ってそうするように、背すじをピンとのばして遠くの海をみつめた。
シチリアの海の色は世界中で一番美しい、とパパは言っていた。濃すぎるぐらいの紺がどこまでも続き、大きな船が二、三、水平線の向こうに見えかくれしている。もうじきパパの船もこの港に着くんだ、と言ったらミーシャも嬉しそうにミャーと鳴いた。

こうしているうちに、あっという間に一ヶ月がたった。それなのにパパは帰ってこなかった。そしてパパが帰ってくると言った日から二週間もすぎて、ママはまた泣くようになった。

それは前のような泣き方じゃない。パパが今度の航海にいくまでは、ママは泣き虫といっても、もう少し慎みのある、ちょっと甘えた泣き方だった。それがこの頃のママときたら、体中の水分をしぼるような泣き方だ。僕にスープをくれることも忘れて、一日中泣きながらマリアさまに祈りつづけている。僕はミーシャのところへ遊びにいくのもなんとなく気がひけたので、パパのおみやげを持ち出して遊びはじめた。すると積み木のかげに、パパが置き忘れていった例の煙草の丸い缶が出て来た。僕はとても懐かしくなって、手のひらでたたいたり、ころがしたりしてみた。その時、
「ジョゼッペ!!」
というママの悲鳴が聞こえてきたのだ。ママは恐ろしい顔で、僕の手から缶をひったくると、窓ガラスに向かって投げつけた。ものすごい音とママの泣き声が同時に起こった。
「けがわらしいわ!あんなものさわって」
ママの取り乱し方は普通ではなかった。まわりにとび散ったガラスもかたづけず、床にうっぷしておいおい泣き始めたのだ。

騒ぎを聞きつけて、マチルダおばさんがやってきた。ミーシャも心配そうに戸口からのぞいている。
「どうしたんだい、しっかりおし、なんていうこったろうねえ、まったく」
「お、おばさん、あたしもう駄目、死んじゃう、わ」
ママの眼から大つぶの涙がいくすじもこぼれた。それは僕がはじめて見る、ママの絶望の涙だった。
「ジュリアーノが、他に好きな女の人ができたの……」
「なんだね、そのくらいのこと。船乗りに女がいない方が不思議だよ。だけどジュリアーノにとっちゃ、家族はたったひとつ、あんたとジョゼッペだけなんだよ、しっかりおし!」
「うちの人、その女の人のところへ行ってもどってこないの……、このままずうっと一緒に暮らしたいって……」
「まあ、なんてこったろうねえ、相手はどんな女なんだい?」
「ジュ、ジュリアーノが必ず煙草を買っていた、マルセイユの煙草屋の店員よ……」

僕はこれでいろんなことがはっきりしたと思ったが、さすがにママに同情した。確かにママは妻としても、母親としてもいたらないところがいっぱいあった。ホントに。けれどもパパのことをあんなに愛して、パパが帰ってくるのだけを楽しみに、パンを焼き、果実酒を作っていたママに、一方的に別れをいうなんてあまりにもひどいやり方ではないか。
「フランス女は本当にタチが悪いからねえ、相手が女房持ちだろうとなんだろうと、見さかいないんだから」

マチルダおばさんはママをいっしょうけんめい慰めたが、ママはそれから泣いて泣いて目がつぶれるような毎日をすごしたんだ。

ママもつらかったかもしれないが、僕もがんばった。だいいち、ママは僕のことをほったらかしにしていたので、マチルダおばさんが僕の世話をしてくれなければ、僕はお腹が空いたあまり、ミーシャのおしりに噛みついていたかもしれない。