BOOKS

–1984–

BEDTIME STORIES

OSAMU GOODSマザーグースのキャラクターが、9編の楽しい物語の主人公になった短編小説。
秋山道男さん、鈴木海花さん、林真理子さん、酒井チエさん、
安西水丸さん、秋山猛さん、佐々木克彦さんら豪華な作家陣が参加。
夢の中でも幸せな気分になれる本として、ファンなら誰もが枕元に置いていた本。
原田治さんの素敵な挿絵を掲載。

シチリア島のイルカの物語/林 真理子

–20–

パパはオロオロして、僕を抱きしめるよりほかはなかった。パパに抱かれている間は、僕は無邪気な顔でニコニコ笑う。安心してふっとまたおばさんに渡そうとすると、悪魔の叫び声もかくばかりと思わせる泣き声が部屋中にとどろくのだ。
「どうするんだい、もう日が暮れちまうよ。あんたがジョゼッペを抱いて家に届けるより仕方ないだろうねぇ」
マチルダおばさんが意地悪くパパに言った。
「わかった。彼女にちゃんと手渡すまで僕が抱いていくよ」
パパはしばらく考えて答えた。僕はパパの腕の中でキャッキャッと声をたてていた。


「フランソワーズ、そんなわけで、僕はこの子を家に置いてくるよ。しばらく待っててくれないか」
「いってらっしゃい、そしてそのまま帰ってこなくっていいのよ」
「フランソワーズ!!」
パパは驚いて僕を床に落としそうになったが、フランソワーズとよばれたフランス女性は落ち着いた微笑をうかべていた。

「私馬鹿だったわ。あなたを私ひとりのものにしようと思ったりして……。年に何回か私のところにきまって煙草を買いにきてくれるあなたの笑顔に私ひかれたの。でも考えてみると、あの笑顔はこれから家族のところへ帰る、っていう笑顔だったのね。あなた、その赤ちゃんと別れることなんかできやしない。あなたには家族というものがあるってこと、私初めてわかった気がする。その赤ちゃんや奥さんの影をせおったあなたと、ずうっと暮らしていくなんて私できやしない……」

フランソワーズは静かに立ち上がって、パパの荷物をドアの外に出した。そして石のように黙ってつっ立っているパパと僕、マチルダおばさんを外におし出すようにしてドアをしめた。

彼女が“オーボワ”と言ったとき、彼女の瞳が涙でぬれているのを僕は見た。将来僕は絶対に船乗りになる。そしてフランスに行き、フランソワーズを探し出してパパの分まで幸せにするんだ。そう僕は心に誓った。


僕とパパ、そしてマチルダおばさんは、三人とも三様の感動を胸に持って、黙って港の道を歩いていた。
「ちょっとお待ち」
マチルダおばさんはしゃがれ声でパパに言った。
「お前さん、女房と仲直りしに帰るのに、手ぶらで帰るつもりかい。シチリアの男ならそんなことはしやしないだろう」
パパは驚いたようにまわりを見わたしたが、目ぼしい店など一軒もない。貝細工のみやげを売る屋台が一軒あるだけだ。
「なんだっていいんだよ。だけどできるだけ派手なものをお買い」
さきほどからうろたえているパパは、ニセの真珠をたっぷり使った、いかにも安っぽいネックレスをひとる買った。それはその店では一番高価なものだった。
「ありがとよ、セニョール。これはおまけだよ」
ひょうきんな店の主人は、大きなイカをつけてよこした。
「さっきもどったイカ漁の漁師がくれたのさ」

右手に真珠のネックレス、左手にイカをぶらさげて、僕たちは海ぞいのわが家へと歩いた。僕はいつのまにかマチルダおばさんに抱かれていたが、声ひとつたてなかった。
パパがややためらいながら、ドアをノックした。

ママの青ざめた顔があらわれ、それはやがて幸福なバラ色に変わった。
「おみやげだよ、真珠」
パパは小さな声でいって、いかにもきまり悪そうにママに手わたした。その姿は、二人の間には何ごともなく、いつもどおり航海から帰ってきたばかりのようだった。
「まあ真珠、それにイルカ!」
ママは異様にはしゃいだ声をあげると、パパがぶらさげていたイカを、両手でおしいただくようにした。
「ジョゼッペ、ごらん!パパがちゃんと約束守ってくださったのよ」
明るく言ったつもりだったが、ママの声はふるえていた。そして堰をきったように涙があとから流れ出して、ママはパパの胸に顔をうずめてしゃくりあげた。

僕はテーブルの上におかれた“イルカ”にかぶりついた。とてもおなかがすいていたし、ママはまだ気づいていないが、僕はとても立派な二本の歯がもう生えているんだ。

大人たちは抱き合うのに夢中で、僕は無関心でいるためにも、白い、プリンとした“イルカ”に噛みついた。