BOOKS

–1984–

BEDTIME STORIES

OSAMU GOODSマザーグースのキャラクターが、9編の楽しい物語の主人公になった短編小説。
秋山道男さん、鈴木海花さん、林真理子さん、酒井チエさん、
安西水丸さん、秋山猛さん、佐々木克彦さんら豪華な作家陣が参加。
夢の中でも幸せな気分になれる本として、ファンなら誰もが枕元に置いていた本。
原田治さんの素敵な挿絵を掲載。

はだしでさんぽ/秋山 道男

–7–

「なんですって! アメリカへ帰るっていうの。」
ミルフィユがかん高い声を出した。

「気でも狂ったの。私はフランス以外の国には絶対に住めないわよ。あなただってそうよ。だいたいアメリカに職があると思って?」
「アメリカにだっていい楽団はいっぱいあるよ。」
「なによ、あなたたちの国にあるのは、ジャズとかっていう、きったならしい音楽と、カントリー・アンド・ウエスタンっていう騒音だけじゃない。アメリカなんてどんなことしたってフランスにかなわないわよ。だいたい……」
「うるさい!」

ブッチは思わずミルフィユの頬をひっかいた。彼女の美しい白い毛に、赤く血がにじんだ。
「やったわね!」

彼女が驚くほどすばやい身のこなしで、ブッチに襲いかかった。彼女は美しい爪がご自慢長く伸ばしていたので、形勢ははるかに彼女の方が有利だった。
「なんていう女だ、いままでネコかぶってたな。」

ブッチは急にミルフィユへの怒りがこみあげてきた。この何ヶ月、自分の彼女への愛情を盾にとって、自分の思うとおりに動かし、いま祖国への愛も捨てさせようとするミルフィユ、
「な、なによ、あなたなんかネコ背のさえない男。」
「僕をぶじょくするのは許さないぞ!」
突然ブッチは、ミルフィユの痛烈なジャブをくらって、そのまま目をまわした。

ぺぺが森の奥で、いつものようにオーボエの練習をしていると、汚ないボロ雑巾が目の前を横切った。ボロ雑巾だと思ったのはなんとブッチで、彼の茶色の毛はところどころ抜け落ちて、からだ中にひっかき傷があった。
「どうしたんだい、ブッチ。」
「うん、ちょっとね……」

ブッチはぺぺのおなかの下にもぐりこんで、タンポポの上にあおむけになった。
「ミルフィユとケンカしたよ……もうだめだ、僕たち。」

ぺぺはなにも言わず、オーボエを吹きつづけた。オーボエ音色は、緑がつきはじめた森の中でかすかにこだました。
「ぺぺ、僕は悲しいよ。彼女はちっとも僕のことなんか理解してくれなかった。僕が愛するほど、彼女は僕のことを愛してくれなかったんだ。」

オーボエがやんだ。
「ブッチ、より愛したものは敗北者になるんだよ。君はいろんなものを深く愛しすぎてる。ヨーロッパ、バイオリン、ミルフィユ……君はいろんなものに一生懸命になるけれど、君の愛したいろんなものが、君ほど誠実だと限りはしないのさ、とても悲しいことだけどね。」

ぺぺの目からひとすじの涙が流れた。ブッチは自分が泣くより先に、自分のために泣いてくれた友に心うたれた。ぺぺも自分との友情において敗北者だったんだ。ブッチははじめてそのことに気づいた。

コンサートの日はよく晴れた、初夏を思わせるような天気だった。リューノスケがひく、日本の『六段』をアレンジした曲は大好評だったし、カプチーノの白いタキシードは、花束を持った女のコたちにたちまちとり囲まれた。

ただ問題はぺぺで、例によって彼のばかでかい図体はステージにおさまりきれず、急きょ前庭で彼の演奏は行われた。天気もよかったので、観客は膝をかかえて日なたぼっこをしながら、ぺぺの演奏を聞き始めた。彼の吹くオーボエは本当にのんびりとしていて、いねむりをする感曲も二、三見うけられ、それはそれで成功したといってもいい。

いよいよブッチの番になった。話題をあつめている出演者である。たくさんの拍手が起こった。

深々とお辞儀をして目を上げると、中央にミルフィユが座っている。両脇にはサラとサージ氏が家来のように控えていた。彼女は昂然と方をそびやかし、ツンとしたあごをいつもより上にあげていた。

もちろん皆はことのなりゆきを知っていたし、それゆえに『ミルフィユに捧げるコンツェルト』は注目を浴びていたのだ。この曲はいってみればミルフィユに対する謝罪である。
だからことのなりゆきしだいでは、ブッチを許してもいいとさえミルフィユは考えていたのだ。

サッとバイオリンの弓があがった。次に聴衆が聞いたのは、いままで誰も聞いたことのない、陽気なかん高い音だった!

ブッチは夢中だった。自分でも分からない。ただミルフィユの姿を見たとたん、あの曲はひきたくないと思った。そうしてブッチがひいたのは、アトランタのメイプル酒場で彼が好んでひいた『ねこはいつでも、はだしでさんぽ』という曲だった。

『ねこはいつでも はだしでさんぽ』

草の上だと、キミはとても軽やかに歩くね
そうさ、恋にネコ背はにあわない
もっとしゃんと背すじをおのばし

誰も知りはしないんだ
恋をするのは春だけじゃない
愛する人と出会えたならば
その日から恋の季節

ネコバババババババ……
ジャババババババ……

キミのウブ毛、春の日ざしにとてもキレイ
ネコ舌のキミのために
ボクがミルクをさましてあげる

ねこはいつでもはだしでさんぽ
歩きながら恋をする

会場の聴衆たちは、こんなに明るくはずむような歌を聞いたことがなかった。
ブッチはいつしかメイプル酒場に立っている。ピーターがいる、オヤジさんがいる、手拍子と口笛が方々で聞こえる。

心がたとえようもなく、自由に、のびやかになって、ブッチのバイオリンは、その時フィドウルに還り、自らさまざまな音をかなでた。ブッチの目はいつしか涙でいっぱいとなった。

いま、自分がどんなにあの国を、あの仲間を愛していたか、ブッチは分かったのだ。あの国を愛している限り、ブッチは決して敗北者ではない。背のびも、見栄もいらない、ありのままのブッチを、あの国は、あの仲間は愛していてくれた。確かに!

ねこはいつでもはだしでさんぽ、そうだ、はだしであの国へ帰るんだ。

音楽にうかれたぺぺが、芝生の上を気が狂ったようにはねまわっている。